生麦事件メモ14〜19
生麦事件メモ14・15 生麦事件当時の日本人口】
生麦事件があった1862年の日本の人口は3330万人と推計されています。この人口はフランス3800万人、イギリス3400万人に匹敵し、日本は既に大きな国であったといえます。
また、江戸の都市人口は69万4000人。
北京90万人に次ぐ世界第2の都市だったとのこと😳
開国当時の日本は小さなイメージだったかもしれませんが、そんなに人が多かったんですね。これでも驚きですが、これは参勤交代緩和で減った人数のようで、それより前、江戸時代中期頃には参勤交代で大名がで江戸にも屋敷を持ったり、その妻・家臣も江戸に住む必要があったため、江戸は100万人を超える世界最大都市だったと言われています。
今でこそ日本には100万を超える都市がいくつもあり、東京は約970万、横浜も約380万人の人口ですが、これは2階建て以上の家屋がたくさんあり、タワーマンションのようなものまであって成り立っているものですよね。
当時はほとんどが平屋だったので、人口密度はかなり高かったのでしょうか??
【生麦事件メモ16・17 生麦事件とみかん】
なんと、薩英戦争の後、みかんの苗が英国に贈られたそうです(諸説あります)。
そして、薩摩藩は和平交渉で、イギリスに薩摩のみかんを輸入してもらうように約束しました。
このことから、今でもイギリスでは温州みかんのことを「サツマ」「Satsuma orange」とよぶようです。
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サツマと英訳できること自体、知らなかった方も多いのではないでしょうか。イギリスやスペインでは結構普通に温州みかんはサツマ、サツマ、と呼んでいるそうで、鹿児島産どころか日本産でなくてもサツマ、と呼ぶようです。
他の説もあるようですが、温州みかん=Satsuma=薩摩が由来ということは確実のようです。
ネット検索で色々なブログ等を見ていると、イギリスでは、薩英戦争は痛み分けでなく、負けたんだ、と認識している方も少なくないようで、負け無しのイギリスが唯一負けたのが薩摩だ、そしてSatsumaをたくさん輸入することになったんだ、どうして日本人がそれを知らないんだ!みたいな話もいくつか見かけました。
その後の薩英の良い関係を考えると、交渉で仕方なく輸入、というよりは仲良くなったから、友好の気持ちを込めてサツマと呼ぶようになった、と考えた方がしっくりしませんか?
ちなみに、あのハリーポッターでも原版ではSatsumaを皆で食べるシーンがあるようです!
みかんといえば、生麦盛り上げ隊隊長のお店、ハッピーバーバーマツノさんでは毎年みかんを販売されています。
日本一みかんを売る床屋さん、とのことで、テレビに出たこともあるとか。
今回のイベントでも、床屋さん併設のハッピーカフェいいトコさんのブースでみかんを販売されますよ!
【生麦事件メモ18 薩摩藩が歩いた距離】
生麦事件の後、薩摩藩はイギリスからの追跡を避けるため、神奈川宿から一気に小田原まで1日で歩いたそうです。
神奈川宿は江戸時代に整備された東海道海道五十三次の3番目の宿場になり、今の神奈川本町を中心に、神奈川新町・青木橋(神奈川駅)・横浜西口あたりまで続く大きな宿場だったようです。
歌川広重の描いた「東海道五十三次」で、神奈川宿が描かれています。
神奈川宿には本覚寺というお寺があり、そこに生麦事件で斬られたイギリス人2人が逃げ込んだそうです。(現在の京急神奈川駅からすぐのところに今もあります)
神奈川宿から小田原までは約60km。フルマラソンでも42.195kmなのに、荷物をもった状態で1日にそれだけ歩いたというのはすごい体力ですよね。
【生麦事件メモ19 生麦事件クイズ その2】
さて、薩摩藩の行列が江戸から鶴見市場に差し掛かった時、島津久光が見た果物畑には何がなっていたでしょう?
①みかん
②梨
③柿
ちなみに、生麦事件があったのは文久2年の8月21日。新暦だと9月14日になります。最近の日本は暑いので、もう涼しい季節だったのでしょうか?
9月頃の果物といえば…流れ的にはあの果物であってほしい気持ちもありますが、ちょっと早いですよね?
大ヒントとして、、「現在も横浜ブランドの品種がある果物」です!
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